気づけば1ヶ月近くも何も書いてなかった・・・先日ちょっとした事件があったので、自分の気持ちを整理する意味でも文字にしておこう。
ここを見てる人は、たぶん関連以外の関係の友人の方が多そうなのであんまり良くないかもしれないけどちょっと細かく書いてみる。
先日飲み会である人(Aとする)がBさんとCさんを殴ってしまった。
そんで、今日初めて関連者と会うような機会があったので当然その事について話題に挙がった。
また、Aさんには会ったけどBさんやCさんには会わなかった。
Aさん曰くBさんやCさんには殴られるような理由があったから殴ったらしい。
当然、どんな理由であれ殴った時点で人として最低とまでは言わないまでも、厳しいと思う。
しかし、それを批評していいのは当事者同士であって他人がとやかく言うべきではないというのが私の見解だ。
まず、あの人たちの間で何があったのかを全て知っているわけじゃない。
また、ABCさんに対する先入観も当然あるので、他人がとやかく言うのはとても危険だと思う。
じゃあ何も無かった事にすべきなのかと言えばそうでもない。
周りの人間はあの人たちに対して少しでも友情(大げさかもしれないけど)を感じているのであれば、あの人たちがいかにあの過去に対して釈然とした決着を(少なくとも彼らの中で)迎えられるかだけを考えるべきだ。
そこまでする義理は無いと思うのであればそっとしておくべきだと思う。
以下に理由を列挙してみる。
勘違いして欲しくないのは、殴ったAが悪いし、堪えたBやCの方が人間として尊敬に値すると思っている。
BやCとの方が親密だし、Aとは事前から特に絡みたいと思うことは無かった。
・よく喧嘩した経験から
中学の時、全然荒れてたとかそんなんじゃないけどよく喧嘩した。多分学年で一番喧嘩した。
喧嘩の理由は俺の口が非常に悪くて(今でも大して変わってないかもしれんが・・・自重します)煽りまくったら相手が逆上→いきなり殴られる→喧嘩のパターン。
生徒同士だけってわけじゃなくて、いきなり先生から殴られた事もあった。
それらは今思えばってわけじゃなくて、事後少し経った時点で全て俺が悪いからだと思った。
先生の時は何故殴られたのかをその場でちゃんと説明してくれたし、それ以外も喧嘩に勝った負けたに関わらず周りに聞けば「お前の煽り文句はガンジーでも切れるレベル」という感じだったから。
人をよく観察し、そいつの意識・無意識下の境界線上にあるコンプレックスを一点集中して、ある程度の反論に対するカウンターも用意しつつ煽ると言う最高に最低な人間だった。あ、今もあんまり変わってないですがw
そんなもんだから何度殴られても冷静に考えてみればまぁどう考えても俺が悪いよなという結論に至ったんだ。
人は人を俺たちが思っているよりはるかに簡単に殴る。特に男はそのあと謝ればすぐ仲直りできるって腹があるから(謝る時は本当に誠心誠意だった)すぐ調子に乗っちゃうんだけどね。
ここらへんの感覚は、今日嫁や義母ともいろいろ話してたんだけど男性独自の考えかもしれない。
・パラダイムシフト
人類が聖書の次に多く読んでいると言われるデールカーネギーの「人を動かす」にある、感情のパラダイムシフトが起こるような人間は未熟だと言う点。
人はどうしても見聞や自分の知りえた情報のみで物事を判断し、考えの及ばない事については「あいつが間違ってるから」「たまたまだよ」「騙されたわ」とか言い出す。
恐らく人物評というか見識眼のレベルでは神に近い孔子すら論語の中で「人と直接トークしてもその人物を見抜くとか無理ゲー。いろんな行動を実見した上でしか解らんわ」つってる。
にもかかわらず、俺らは生きてく上で否応無しにいろいろな判断を迫られるが、いつからそれが全て正しいとか、まぁ間違いなくとか言っちゃうようになったんだろう。
・盗人にも五分の理
まぁ上に書いた事に関連するけど、それなりの理由があるはず。
ただ、それを本人から聞いただけじゃ足りないし、結論的にはすぎた過去を証明する事は出来ないから100%把握は出来ん。
しかし、人が通常起こしえない行動をする場合には、様々なコンテキストが存在する可能性が高いってことだけは念頭に置いた方がいいと思う。
・法律とか言い出すな
法律というのは最低の人間を縛る為の最低限のルールで、抵触するような奴は最低のやつだ。
だから少なくとも人物の全てを理解した上で「最低だ」というのではない限り、人間味をもって「法律違反だから」という殺し文句で納得しないで欲しい。こと人間関係においては。
人間関係において法律云々言い始めるのは思考の放棄だと思うし、不義にあたるとさえ考えている。
「森の朝顔」って死刑をテーマにした漫画があるんだけど、死刑囚に対して法の結果ではなく死刑囚がいかに懺悔を行えるような状態にもっていくかについて非常に細かく描写されている。
たとえ死ぬことが決まっていたとしても、それはタイムリミットなだけであって本当に大切なのは当事者同士が自分の行った行為に対して正しく認識する事なんだと思う。
じゃあどうすんのさとか思うかもしれないけど、ここに書くべきではないので書かない。
今回の件で一番不快だったのは、あの事件がおきた時に咄嗟に動いた人とそうでない人が居た。
昔友人が癲癇で発作を起こし、咄嗟に動いた人間とそれを傍観している人間が綺麗に割れたのを思い出して反吐が出た。
そして、当事者同士がいかに納得できる形で過去にする事が出来るのかではなく、今後の自分に対する保身について考えている人が思ったより多かった事も非常に残念だと思った。
別に武士道を読めとか論語を読めとか言うわけじゃないけど、少なくとも算数や英語なんかよりももっともっと大切で価値のある事があるんじゃないのかなと。
もちろん俺は精神論や神仏関係は糞みたいに思ってるし、利他的な考えはくだらないと思うし、「おもいやり」なんて抽象的で観念的な考えは無い。
そうじゃなくてロジカルに考えてみても、算数や英語よりも実質的で利己的で具体的な利益を得れる、学ぶべきものが決定的に欠落してるのではないか(当然俺もね)と感じた。
0 件のコメント:
コメントを投稿