メメント・モリ:死は常に傍らにありますよ的な。
最近キリスト教関連の書籍を何冊か読んだので中世に協会が免罪符を売るためだったり、施政者が民衆をコントロールするための、くだらないキャッチフレーズのように思っていた。
というか、実際歴史的に見ればそのように作用していたと思う。
だがこの考えというのは精神を安定させる上でもある程度の効能はあるということを論理的に感じたのでまとめてみる。
・ノイローゼ
ノイローゼと思われる酷い事件が最近も何件かあった。恐らく近隣住民の嫌がらせが原因でノイローゼになったお母さんが、自分の子供を手にかけてしまったのとか。
尼崎の件もそうだし、何か親族同士でいろいろ起こってるやつ。
一言『まぁ俺にはありえない』で終わらせられればいいんだけど、カーネギーを読んでからの人生、その一言で終わらせることが出来なくなってしまった。(別にこれを嫌なこととは思ってない)
何でああいう状況になったんだろうと考えてみる。1人で考えてるとどんどズレてくので、カミさんとかと一緒に話したことを書いてみる。
これを感じたのは引越しおばさんの件が最初だったかもしれない。
本当かどうかはわからないけど、引越しおばさんは実はとある宗教団体がたくさん住む住宅に住んでいて、お子さんが障害を持っていて近隣住民に迫害されてたとか。
その嫌がらせが酷くなっていくうちに自己防衛本能が働き、ああいった状態になってしまったという話。
本当かどうかは判らないが、コンテキストは繋がった。
・自己防衛
先月かな。ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』を読んだ。強制収容所を生き延びた心理学者の話。(歴史的大著だから読むべし)
究極の状態、かといっても数分後に死ぬとかじゃないけど、確実に「そう遠くない未来」が無いような絶望的な環境において、人は精神構造を変えざるえないという事が立証されていると思う。
精神構造を変えつつも、高潔さを忘れないかどうかは別。確実に何かを変えなければ環境に適応出来ないわけで。
これを読んで感じたのは先の引越しおばさんのような件がリアリティをもって実感できたこと。
とはいってもどの事件もどの仮説も立証できるものでも、真実を知ることが出来るわけでもないんだけど。
一つ確実に言えるのは、酷い環境にある人間が排他的に変わっていく様を誰も責められないと言う事か。
そして、環境が改善されても急速にその人間性を取り戻すことは出来ず、むしろじわじわと蝕まれてしまう事があると。
(逆に肉体は奇跡を起こす…例えば強制収容所ではビタミンと呼べる栄養など一切摂取出来なかったのに2年間風邪をひかなかったなどという点もまた興味深い)
・コンテキスト
人生には文脈というか、前後の繋がりが必ずある。
ある一つの現象だけ見れば『俺なら良心がその行動を絶対におこさせない』と断言できるかもしれない。
でも、様々な内外の影響が及んでたらどうだろう。
その一つ前の現象を見てみると、少しその後の行動についてもコンテキストに共感できたりすると思う。
そしてそれを繰り返した時、自我すら存在しない、物心が付く前の段階にまでなった時に、誰も『俺なら良心がその行動を絶対におこさせない』などと言うことは出来ないわけで。
ましてや過去、自己防衛のために精神を歪ませるような出来事があったらどうなるのか、その影響を測ることなんか出来ないし。
それがどの程度あるかどうかすら、検討もつかないんじゃないかな?
ということで、普通の人が普通に暮らしてても歯車が狂うことは当たり前にあるわけで。
偶然が2つ重なればもうそれはコントロール出来ない。
そんな状況が発生する可能性があるよって意味での『メメント・モリ』なら、なるほどなって思った。
・多分職業病
一つの結論があり、多くの怪しい点があって、その森を直感を元に探り、純然たる論理で証明するのがプログラマー。
ただの保守です。
一つ重要なのがコンテキストを完全に明確にしなければならない(しないと途中式が適当で結果だけをでっち上げて「やったねタエちゃん」になる)ところ。
だから何となく思ってるのは気持ち悪い。
多少歪んでてもいいから、本当に考えなければならない時に参考となるフレームワークやベストプラクティスを作る癖。