2009年2月17日火曜日

コンフリクト・マネージメント



敵とは利害が一致しない人、又は人の集団といった所か。





ヴィンランド・サガの台詞を思い出す。


『お前に敵などいない 誰にも敵などいないんだ』





『敵』についてはこんな意見もある。


http://www.meigennavi.net/word/025/025366.htm








先日読んだエリヤフ・ゴールドラットの「クリティカルチェーン」では問題、衝突、そして解決の手法が書かれてあった。


マーク富岡の「3000人のユダヤ人にYESと言わせた技術」では対立構造の取り方により敵を味方に出来ると書いてあった。


その他にも今まで読んだ本などから通ずるものがあったので簡単にまとめてみる。








「クリティカルチェーン」はとあるIT企業がメーカーに対してソリューションを提案し、業績アップに貢献するという話だ。


製造部門と管理部門が対立し、プロジェクトではメンバとマネージャが対立していた。


これらはいずれも敵同士と言えば敵同士だが、その認識では目的(業績アップ)は達成出来ない。


各部門は会社の業績アップ、プロジェクトメンバとプロジェクトマネージャはプロジェクトを成功させたいという共通認識がある。


これらは A 対 B ではなく A&B 対 C(対立の原因)と認識する事が最初のステップだそうだ。


何故 A&B 対 Cという本質ではなく A 対 B という構造を描きがちなのか。


原因は部分最適化にあるのだが、ここでは詳しい内容は割愛しておく。めっちゃ長くなるので。





「3000人のユダヤ人にYESと言わせた技術」はとある商社で働く交渉のプロがどの様にして商談をまとめるかと言う話。


ここでも自分の利益ではなく両者にとって最も有意義な点を如何に見つけるかが重要だと言っている。


自分の利益を追求してしまうと、相手は防衛反応を取り、結果として『交渉決裂』という最悪の事態を招く可能性があるからだ。


また、相手に華を持たせる事で今後の取引をスムーズに行わせたり、相手にとっては大した負担ではないが自社にとっては非常に有意義な機会を得たりする事もあるそうな。








↑のサイトに以下の一文がある。





あのキリストでさえ、「敵」がいて、十字架にかけられたことを思い出してみると、それも違っていることが分かります。


「聖人」であっても、「敵」は存在するのです。





本当に キリスト 対 敵 と言う構造が真実なのだろうか。


キリストは敵を皆殺しにすれば張付けられずに済んだだろうか。


違うと思う。


敵にはキリストを張付けにしたい理由、原因があったはずだ。


その原因を解決する事が出来れば、キリストも敵も平和に過ごす事が出来たんじゃないだろうか。


(まぁ上のサイトはそういう事を言いたいんじゃないと思うが)








あいつが損すれば俺はその分得をする。


そんな単純なゼロサムゲームは世の中にはほとんど存在しない。


事を単純に認識する為にこのような考え方になる場合が多いが、真実は異なる。


と言う事を前述の例は言っているんだと思う。








何か回りくどくなってしまったが、先日こんな事があった。


俺がある設計者のA氏に理不尽な事を何度か言われた。


周りに居た人は別の場所で「何で言い返さないんですか」「あの言い方は無いわ」とか言ってた。


俺も言われた直後はカチンときたし、口論で打ち負かそうと思えば出来たかもしれない。


でも、俺 対 A氏 は違うと思った。


A氏は毎日3時間残業してる。技術力は高い。


俺は毎日定時上がり(無論スケジュール超前倒しだから)。Webに関しては自信がある。


いろいろ考えたり回りの状況を見てみると 俺 & A氏 対 X(原因)が見えてきた。


そこでXを解消する為に動いた事でA氏の俺に対する態度が徐々に変わってきた。





新しい現場に来てまだ10日しか経っていないので全ての人に認めてもらうのは難しいと思うが、悪くない滑り出しだと思う。今では。


なんか1年前も似たような状況があったような気がする。コンフリクトマネージメントについては少し上達したのかもしれない。





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